あなろぐばあちゃんのつぶやき

Yahooブログ育ち、4人の孫のおばあちゃんです。

鯨も牛も、マグロもイワシも♪

どの生命も等しく尊い

人はヒトとしての本能とともに理性を備えて、他の生き物の生命に感謝しそれをいただいて生きている。

鯨も牛も、鮪も鰯も、どの生き物の生命も等しく尊い

また、この広い世界には、あまたの人がそれぞれの文化、食文化を持ち、生きている。

それは、尊重されるべき当然の権利だ。







子供の頃、食紅の色鮮やかな脂っぽい鯨のベーコンが苦手だった。
また、時々美味しいさつま黒豚のカツを口に出来るならば、
鯨カツにノスタルジーは感じるものの、進んで口にしなくてもいいかぁって思ってしまう。
しかしこれは、あくまでも私自身の個人的な嗜好の問題である。
他人に「鯨を食べちゃダメ」と言われれば捨ておけないっ!
捕鯨食は自然にやさしく素晴らしい、日本古来の食文化と誇りに思っている。

ところで、食糧自給率が問題になる中で相次ぐ、食に関する事件。
コンビニやファーストフードや流通での食品の廃棄率を押さえれば、それだけで自給率は十数%上がると聞いたことがある。
戦後の食糧難を知る世代も、飽食に慣らされて食べ物のありがたさを語ろうとしなくなった。
きっと語ってくれたところで、もはや若い世代の理解を超える話だし。。。

有り余る食材とたやすく手に入ってしまう本来は手のかかる食べ物。
昔は行事食だった手のかかる巻き寿司やお煮しめも手軽に買うことができる。
「ご飯が無ければ、コンビニの幕の内弁当があるじゃない。」
「パンが無いならお菓子を食べればいいじゃない。」
今や誰もがマリーアントワネット!

考えてみれば私たちは、毎日ごちそう三昧の暮らしの中で、本当のごちそうの存在を忘れた悲しい世代かもしれない。
宴会や街ご飯が続けば、ご飯に白菜の浅漬け、豆腐の味噌汁といった食事がごちそうになってしまったり(苦笑)
今問題の餃子は、材料自体は安価だが、手がかかるからご馳走の感覚が昔はあった。
空腹は最高の調味料とよく言われるが、ご馳走は本来そうやすやすとは口にできないからこそ価値があり、ご馳走なのだ。
ハレとケの文化の中で培われた日本の食文化、ハレ、ご馳走三昧の飽食の時代にすたれてしまうのは悲しすぎる。

他国から避難を浴びる鯨食、日本古来の食文化についてあらためて考えてみたい。
世界に誇るべき食文化と自負しつつ、現実、あまりに粗末にしてはいないか。
たとえ政治的策略あってのこととしても、固有の文化を主張せずにはいられない今だからこそ、
日本の食文化を大切にする気風を高めたい。
台所をあずかる主婦の役割は大きい。

かといって、何をするわけでもなく、あたりまえの暮らしを続けるだけなのだが(笑)
要は、食べ物に対してもう少し謙虚でありたいと思う。
特別なことは何もしないが、あたりまえに暮らす日常の食卓に家族の幸せが、きっとあると信じているから。

忙しい暮らしの中で、手軽なものに献立が偏るのは致し方ない。
ただ、手のかかるものを手をかけずに安く美味しくなんて、無理なわがままはこの際やめようと思う。
できるだけ、近くで獲れた、自然に近いものを、大切に食したい。

幸い農業県に暮らし、加えてお向かいの八百屋さんには新鮮なご当地産の野菜や国産の肉、地魚が豊富に並んでいる。
冷凍枝豆を湯がく代わりに、はしりのサヤエンドウを湯がいて、湯上がりのビールを楽しむ。
ビリーの体操に汗を流す代わりに、日常の家事にもう少し汗を流して、ほうれん草は自分で湯がく。
ウィークデーは食べたい餃子を我慢して、週末に煮込み料理の傍らで、のんびり手作りしてみる。
たくさん作ったら、安心の我が家製「冷凍餃子」にするもよし♪
養殖魚のエサになる新鮮なアジゴイワシは、少し手をかけお刺身にすれば私達には何よりのご馳走だ。
ポリ袋で手軽に出来る浅漬け、家事の合間に残り野菜を刻み、鍋に放り込んで煮込む体にやさしいスープetc.
白菜、キャベツは最後の1枚、芯までムダにはしない♪

パック容器の後始末や、得体の知れない材料への不安と天秤にかければ、言うほど手のかかるものではない。
また、ささやかな我慢とわずかな努力が、美味しさの何よりのエッセンスと心得よう。



今、食育の時代。
食育のおおよその中身は、古来の日本食文化への回帰であることを肝に銘じたい。