あなろぐばあちゃんのつぶやき

Yahooブログ育ち、4人の孫のおばあちゃんです。

○○よりも△△、それはさておき美化語のこと。。。

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○○よりも・・・

  愛国心よりも自分を愛する心を
        ↓
  国を愛する心よりも自分を愛する心を

       と書き換えてはみたが、、、

国を愛する心と自分を愛する心は一緒に育めばよいではないか。
何かを主張する際、他者の排除の前に、強調の手段をまずは考えてみるのもよいのではないか。
常々そう感じていた。

ただ、つい昨日のこと、「美化語」についてあなろぐは思った。
美しい言葉使いは大変よいことと思う、だがラジオのニュースの解説を難解と感じるのは私だけだろうか。
新聞報道の場合は、中学2年生が理解できる難易度が基本と伺ったことがある。
だから、「永遠の小学5年生」に難解なニュースは、仕方ないことなのだろう。
ただ、私のようなオバチャンも美しい言葉使いができる指針であって欲しい。
美化語がどうのというよりも、普通の日本語を話す若者を育てて欲しいと思うのだ。

私は今、若い世代には「敬語」の前に「正しい口語」、と感じている。
言葉づかいひとつで、人の印象が変わる。
訳ワカラン若者ことばを話す子も、ちゃんと話せばその素直さや考え深さに好印象を覚えることがしょっちゅう。
美しい言葉づかいは、若い人達の能力や素質を、あるがまま周囲が受け入れる近道となる。
正しい日本語を、大方はわかっているけれども使わないような気がしている。

話す相手や話題となる人への気遣い、思いやりが、耳に心地よい言葉を紡いでくれるように思う。
気は使わなくてよいが、気遣いをできるのが大人という気がしている。
義務教育の国語教育が役割を果たしていれば、その気遣いの中で、敬語や美しい言葉は自然に育まれる。
母国語とはそういうものではないのか。
言葉について語るとき、心の話しをしなければ、技術・手法に頼らなければならない。
その結果が「美化語」のように思われた。

それにしても最近、昔と比べると若い人が語り合う機会が少なくなったと感じる。
若い人の話言葉が貧しくなった原因のひとつであるように思う。
昔全国各地で起こった大学紛争を教訓に、国立大学が折々に語り合う場を排除する方策を講じたことも一端を担っているような気がする。
語り合うことで、言葉で思いを伝えようという欲求が生まれる。
その思いが、話し言葉を豊かに育むのではないか。
携帯メールのコミュニケーションで満足すれば、豊かな話し言葉は育めない。
また、プレゼンと演説はできても、対話や会話ができない学生。
出世して部下が出来ても、友人がいない人間は寂しい。
豊かな人間関係は、話し言葉によって育まれる。

「きれいな言葉使い、敬語を使える大人の女性になるためには、純文学の中に出てくる素敵と思う女性登場人物の話し言葉を真似してごらん。」と、30年以上前、当時の今時の女子高生を前に高校国語教師は語った。
50歳を前に、国語の理論を頭にいれるよりも、美しい言葉にあらためてたくさん触れてみたい。
少なくとも「美化語」について理解することよりも、美しい言葉を話せることが、永遠の小学5年生には相応しい課題のように思う。

それにしても、美しい日本語を育んだ先達の国語教育はいずこへ。。。
孫が美化語について勉強するようになれば、おばあちゃんの出番は無くなると心得よう。









ただネェ、あまり堅苦しく考えなくてもいいって思う。
敬語は少しぐらい間違っていても、相手を敬う気持ちが伝わればそれでいいもの。
言葉足らずがあったっていいじゃない。
アイコンタクトという手段もあることだし (^_-)-☆
話し言葉って、ほんとは人にやさしいなぁって思う♪