あなろぐばあちゃんのつぶやき

Yahooブログ育ち、4人の孫のおばあちゃんです。

空白の時間のこと

うつ病から回復した人が、「病気になってよかった」と口にすることがあります。
確かに「回復」は何よりの宝物です。
それが多くの人への感謝とともに授かったものであることを思えば、
その言葉に共感しないこともありません。

ただ、病気であった現実を受け止めつつ、敢えてどちらかを選べと言われれば、
私はやはり、ならずに済めばその方がよかったと思わずにいられません。

私には、記憶がすっぽり抜け落ちている「空白の時間」があります。
消せない過去、事実がありながらも人の記憶はそれを忘れることができます。
それは時に身体の傷がふさがるのと同じように、本能のひとつであるように思います。

  長く苦しんだことは忘れようもなく重く暗い大きな記憶であるものの、
  辛うじて日常生活をこなしていたその時期の記憶がすっぽり抜け落ちている。
  ボケてもいないのに(苦笑)

これは、私自身腑に落ちないのですから、周囲の理解を得ることは難しいと思います。
当時の病んだ思考と鈍麻した感情、
そこにはもう二度と戻ることはないと思うものの、
何かの拍子に、どうしても、そこに引きずり戻されることがあります。

死にたいという思いだけに集中していた時期に、義父を亡くしました。
去年七回忌を済ませましたが、でじの当時の私への不満は、
とても残念ですが、今はどうすることもできません。
何故って、当時の記憶がすっぽり抜け落ちているという事実。
こんな大事なことなのに、まるで記憶喪失状態。
またその数年後、死のうとした時の行為と前後数時間の記憶は鮮明なのに、
こちらもその周辺の記憶がすぽんと欠落。。。
このあたりだけ、まるで大昔のことみたいに。。。

信じられないことと思いますが、本当にそうなんです。
なのに、何かの拍子にでじから、反省を促されたりする(苦笑)

正しい選択を知りながら、どうしてもそれが選べなかったこと。
それを今反省しろと言われても、残念だけど、後悔はあっても反省はできない。。。
これこそが病気だったことの現実です。
当時の記憶は大事なことだから、本来忘れる筈のないことなのです。
でも無理にその空白の時間をつなぎあわせたとして、そこに居合わせるのは病んでいた自分。
そこで私に何が出来たというのでしょう。

本音は病気になどなりたくはなかったのです。
でも、回復という宝物が、この空白の時間とともに与えられている現実。

私にとって真っ白な時間は、でじには忘れようもない時間である現実。

  「空白」何もないという重さ、
    それがかけがえのない時間であればあるほど、人には伝えることはできません。

同じ病気を経験された方々とお話しをする時、この空白の時間が話題にのぼることがあります。
同じように、誰にも伝えようのない大きな悲しみを抱えておられることに気づきます。
現実の時間もいっそ抜け落ちてくれたらいいのにって思うものの、
そうは問屋が卸しません(苦笑)
それが現実で、その中で私達は生き続けなくてはならないのです。

空白の時間、それは私達にとって決して共有することのできない、過ぎ去った時間です。
うずめる術を持たず、ただ抱えて、それさえ忘れているかのように、
静かに生きていくだけです。









 久しぶりに眠れず、久しぶりにたくさん泣いてしまいました。 
 ここに吐き出して、リセット。
 読み返せば纏まりのない、不出来な記事。
 でも、こんな日もあるさぁっ!と、消さずに残しておきます。

 読まれた方は、笑っておゆるしくださいマセ。

 さて、三連休最終日、もう一度ベッドに潜り込むとしましょう。
 (^^)/~~~