あなろぐばあちゃんのつぶやき

Yahooブログ育ち、4人の孫のおばあちゃんです。

それで、自殺しますか?

はい、では練炭・・・ってサイトじゃなかったですね、あなろぐは (^^;

昔、ODで救急処置を受けたことがあります。
(ちなみに、睡眠薬では死ねないことは承知で、7階から飛ぶ準備のつもりでした。)
深夜、ERから精神科病棟の処置室に。
目覚めた私は、当直医の顔を気付いたらじっと見つめていました。
先生もまた言葉をかける訳でなく、でもじっと私を見つめていてくださいました。
見ず知らずのお医者さんです。
一瞬、目をそらさない行為の難しさや尊さに思いがいたった時、
「もしかしたら、失敗したと思ってはいけないのかも知れない。」と考えました。
それが、病気を治したいという気持ちの、かすかな芽生えだったかも知れません。

救急処置を受けた日、私は朦朧としたまま家族と帰宅し、病室の空きを待ち数日後入院しました。
それから約4ヶ月の入院生活を送ったのですが、その当直の先生とは言葉を交わさないままでした。
しかし、おりしも退院の日、院内のATM前、順番待ちで先生に遭遇することができました。
そして、前述の出来事と感謝の気持ちをお伝えすることができました。
その場面に至るいきさつなどは何もお話ししていません。
それなのに、まなじりにかすかに涙をため、
私への励ましと感謝とともに伝えられた、処置時の先生の気持ちは、
「死ぬほど辛い思いをされたのだから。」というものでした。

精神科医として長年の経験を積まれる中、色々な患者の苦しみに耳を傾けてこられた方です。
その方にして、苦しみに重さはなく、ただ当時の私への共感があるのみ。
冷静に過去を振り返り、果たして死ぬほどの辛さとはと当時の私自身に問うてみました。
そして結局「自殺」は、何のせいでもなく、ただうつ病という病気のせいだと思い至りました。

この病気は、必ず治る病気です。

病棟には、手首の深い傷や、両足骨折等大きな体の傷を負っていらっしゃる方もありました。
その方々のお話しに耳を傾けたことがあります。
また、別の笑い話が好きな方の言葉に、「死ぬほどの苦しみ」を見つけたこともあります。
結局は、死ぬほどの苦しみというものはないのではと思うようになりました。

また、生死は本来ひとつ。



  「死にたいと つぶやく口で 芋を食む」

     食事時、ルームメイトのお婆さんを詠んだ一句です。
        オソマツ <(_ _)>
     いつも幻聴とお喋りしているか「死にたい」とつぶやくばかりのお婆さんでした。
     どんなに病んでも、人は皆本能を備え、生きるように出来ているのです。
     わざわざ、「生きる力を」なんてナンセンス。
     もしそんなもんがあるとしたら、「力まない能力」じゃないでしょうかぁ。

まぁ、そんなことはどうでもいいことです。

取り敢えず、美味しいものでも食べて、一服してみませんか?
急ぐこともありません。






* 長文をお読み頂き感謝です。
  昨日、47歳の誕生日に書いた文章です。
  当時は到底迎えられる筈のなかった誕生日です。
  これを記事にするにあたり、悩みました。
  心情お察しいただき、コメントはお控えいただければ幸いに存じます。