あなろぐばあちゃんのつぶやき

Yahooブログ育ち、4人の孫のおばあちゃんです。

「ヒトとして、本能のままに」

「ヒトとして、本能のままに」と書けば、あたかも自然回帰のメッセージと見て取られる。
でも、現実はちょっと違っている。

この2週間近く、バアチャンになるための試練に私は向き合っていた。
そんな中「自然」という言葉に妙なひっかかりを感じた。
まだまだ当分はその試練から解放される訳ではないのだけれど、試練の核心から離れる問題に触れ、少し気を紛らわせてみることにしたい。

以前、発生学のエキスパートでもある、先代のうちの組織のトップの話を聞いた。
「ヒトは環境を変えながら生きる生物で、環境を変えながらしか生きられない。」という内容の話だった。
1時間足らずの話しで、深い話しではないものの、とても印象深かった。
科学の進歩はヒトの自然な営みの延長線上にあるものなのだ。
ならば、「人工」こそが、ヒトとして自然に生きる営みの産物なのではないか?と思うようになった。
とすれば、巨大な建造物も蟻塚にも似たものと言えなくはないか。。。

自然志向がブーム。
自然に任せると言えばカッコいい。
だが、人がヒトに近い出産の営みを行っていた時代、多くの妊産婦と乳幼児が命を落としていた。
めざましく医療が進歩する中、とりわけ生殖医療では、神の領域に人間が踏み込む時代になったような気がしている。

動物愛護精神も持ち合わせているつもりではあるが、やはりイヌ、ネコと人間は同じではない。
それは、医療が人間の英知の産物だからだ。
さらに、人は居合わせた場所や環境によって、助かる命がふるいにかけられることがある。
その中で、最善を尽くそうとする時、何を持って自然淘汰と整理するのか葛藤が生まれる。

家族の妊娠出産は長い人生の中で、ほとんどの人間に関わりのある大きな出来事である。
医療倫理について、もう少し語られる機会が増えてもよいように思う。









ところで、辛いやり取りの中、「切迫早産」は自然淘汰の証拠という言葉を耳にした。
切迫流早産を乗り越えて、ふたりの子供達を授かったのが二十数年前。
不出来といわれれば反論のしようもないが、私にしては上出来で、かけがえのない愛する子供達である。その時代にあってさえ、とうてい淘汰されるべきだった命などと言える筈がないと思っている。
最終的には、苦しい話し合いを続け、理解を得ることができたのは幸いであった。
今思えば、「切迫早産」という病名の決して穏やかではない響きが状況を深刻にしたような気がしている。



不慣れな難しい問題にいきなり直面する時、一般市民にとってはそのなじみのない言葉のニュアンスの持つ意味が案外大きく、問題をいたずらに深刻にしているような気がした。



「切迫早産」、この言葉何とかならないものだろうか。。。