あなろぐばあちゃんのつぶやき

Yahooブログ育ち、4人の孫のおばあちゃんです。

「田園」と「ダム」の風景

 ぼんやりテレビを眺めていたら、のどかな田園風景、平和な日本の風景が映し出されていました。
 そこで、ふぅっと思ったこと。
 
 治山治水に関る公共工事が、自然破壊、環境破壊につながるとして、メディアや市民団体にたたかれることがしばしばあります。これらはのどかな田園風景を支える重要なものであり、また田園風景そのものが、もともとは自然の野山を切り拓き、人の手によって作られたものなのです。しかし、田園風景を自然破壊の産物と言う人はおりません。
 
 長野県知事は随分前に脱ダム宣言をされましたが、必要とされるダムに代わる画期的で具体的な手だてが語られたとは、未だ聞き及んでおりません。人々の暮らしを守る責任、地方行政を司る人として、無責任さを感じるのは私だけではないでしょう。
 
 昔、「ヒトは、環境を変えずして生きられない生物である」と言う、著名な生命科学者の話を聞きました。
 環境汚染はともかく、幾多の壮大な公共事業の全ては、人間なりの「巣作り」の延長にあったものではないかと思う時があります。「変えること」を安易に、破壊という悲観的言葉で染めることは慎むべきと考えます。
 自然の美しい風景には感動や安らぎを覚えます。私はそれと同じように、壮大な、人の用に供される土木建造物の美しさにも、しばしば感動を覚えるのです。
 幼い頃、バス旅行で熊本県天草の海に架かる5つの橋を渡り、それらの橋がそこに住む人々の暮らしを支えるものであることと併せ、自然の中に佇む壮大な美しさにただ感動し、橋そのものに、畏敬の念を抱いた記憶がよみがえります。山桜とマッチする壮大なダムの風景またしかりです。
 
 人知のあずかり知らぬ力に畏れを抱きつつ、今豊かで穏やかな暮らしを支える、先人の苦労の結晶、治山治水、用の産物に素直に頭が下がります。また、後生の暮らしを支えていくであろう、現代の知恵の粋をこらして造られていく構造物は、無力な我が身に関わらず、同じ時代を生きる人間の誇りです。一方、市民活動が、自分自身の生きる糧を得ることに追われて行えるものではないことに、皮肉な現実を感じます。
 
 私は、「用の美」という言葉が好きです。
 また、「自然との共存」に最新の叡智、科学技術が生かされるという「良い時代」を生きることに、感謝するのです。