「あたりまえ」を見つめる
長かった梅雨の終わりのことでした。
老母が熱いお茶をすすりながら、つぶやきました。
「あの豪雨で水害にならずにすんでよかった。」
私の住む街の中心部は、集中豪雨で度々冠水する箇所が散在し、交通が寸断されることもしばしばでした。
「そう言えば、昔は大変だったねぇ。」
私も、短い相づちをうちました。
自然破壊との安易なバッシングにめげず、あたりまえに、たゆまなく公共事業は続けられてきました。
そして、そこに、あたりまえのように、私達の穏やかな暮らしがあります。
あたりまえのことを、マスコミはほとんど取り上げません。
あたりまえのことは、世論が形成され、評価がなされる機会を得ません。
例えば、長良川河口堰の功績。
きちんと知っている人は、地元の住民を除けば、一部業界人に限られるのでないでしょうか。
非難はあまりにもたやすくできてしまいます。
扇情的なマスコミの大きな声に、冷静な賢人の小さな声はかき消されてしまいます。
今、未来を見つめる時、「あたりまえ」の今とこれまでを、見つめなおす機会にしたいと思います。
見つめる未来については、、、
昔、中学生だった弟の社会科の授業に、教科書が使用されず、片寄った考えを持つ教員の手作り教材で進められていたことを知り、これに寛容な動きがあったことに対し大きな憤りを感じたことがありました。
漠然と国民の幸せな暮らしばかりが語られる中、ばあちゃんとしてはぁ、、、
教育が、日教組の台頭等により、再びゆがめられることのないよう、祈るばかりです。