あなろぐばあちゃんのつぶやき

Yahooブログ育ち、4人の孫のおばあちゃんです。

ブロ友との別れのあり方について考えること

大切な友人の一人を亡くして、3週間が過ぎてしまいました。
こうあるべきという、心の整理のしかたはわかったつもりです。
また、骨葬への参列を節目にしようと、心に決めたつもりでもおりましたが、何かの拍子にこぼれる涙はどうしようもありません。
これから、薄紙を一枚一枚はがすように、少しずつ、彼女がいないことに、慣れていかねばなりません。
悼みが懐かしさと折り合いをつけてくれるのは、まだまだ先のようです。
 
私の思い、記事を読まれた方への要望は、前記事等に綴ったつもりでおりましたが、伝えることの難しさ、自身の力不足を今痛感しております。
この数週間考えていたことですが、日曜日の朝はいよいよ、しばらくの間ここを閉鎖、あるいはゲストブックだけでも閉じようかと思ったところです。
しかし、心ある方のメッセージがここで頂けたこと、古くからのブロ友の前記事への”ナイス”、また、骨葬でご一緒させていただいた故人のご友人からメッセージは、本当にありがたいと感じております。
ご縁に感謝、やはり閉じる訳にはまいりません。
ただ、さんざん悩んだ末、「彼女を失った悲しみと折り合うことがリアルの友人と同様に、難しいことと思います。」と仰ってくださるご友人の思いを、ご理解いただく必要もあり、敢えて書かせていただきます。
 
今回、ブログ上でのお別れのあり方、難しさについて、つくづく考えさせられました。
普通(リアルでは)、親しい人を亡くした時、お通夜や法事の語らいでは、ご縁あって集まった者達が、故人を偲び哀しみを共有しながら、静かにお別れをいたします。
初めてお会いする方であっても、顔が見える安心感があるせいか、穏やかに言葉を交わすことができ、静謐な空気の中で、嘆きや苦しさは、ただ静かな深い哀しみへと変わっていきます。
たくさんの溢れる思いがあったとしても、それを皆、つつましく自分自身の心の中に、収まる器を探すのです。
 
お通夜や法事の席は、宗教が介在することで秩序が生まれるのでしょうか、大抵は和やかな語らいの時間になります。
哀しさや苦しみもお互い個々のものとして、お辛かったですねと、お声かけはしても、少なくとも、激情を自ら吐き出して他人にぶつけるようなことは誰も致しません。
この哀しみの共有の時間は、お経の意味もわからない痴性派あなろぐなど、信心の無い者にも一様にやさしいものです。
 
きっと、交わす言葉は、消えていくからこそ、温かく、やさしいのだとも思います。
 
しかし、ブログとなると、顔も見えず人となりを知るのも難しいことが、穏やかな哀しみの共有に高いハードルを与えていると、少なくとも私は感じております。
また、家族やリアル友等、周囲の理解を得づらいからこそ、余計に哀しみの共有への要求は強まるものなのかもしれません。
(私の場合、彼女とは娘も面識があり、ブログ外でもお付き合いを温めてきたことで家族も理解があり、遠方での骨葬に夫が背中を押して送り出してくれたことは幸いでした。)
ただ、状況はどうであれ、哀しみは自分自身で乗り越える以外にないと、私は思っております。
また、通常(リアルで)は、儀式を通し、時差の修正が行われ、経過する時間を共有出来ます。
しかし、時が止まるブログには来訪者同士が共有する”今”は無いのです。
やっと心の整理を始めた者にぶつけられる見知らぬ人のフレッシュな激情は、時に暴力としか言いようがありません。
悪意が無いだけに始末が悪いです。
もしも”匿名”が、大人の日本人としての冷静さ、良識や良心を剥ぎ取っているとしたら、それは大変残念なことです。
 
特に、彼女の生死が掴めなかった時に書き込まれたメッセージ、故人の尊厳を傷つける勝手な詮索に胸をえぐられる者も現にいるのです。
それが当時、本当は励ましの裏返しの言葉で、悪意は無かったとしてもです。
 
今、書く人の自由、匿名性はブログの利点であるものの、大きな欠点でもあると痛感します。
考えは様々でしょうし、消してくれるとよいのにと思うものの、お願いする権利が私にはありません。
ただ、ブログ上では、新聞や書籍と違い、無言で削除が出来るのです。
潔く消すことも、書くことと等しく、言論の自由の一部であると考えるところです。
少なくとも、品格あるブロガーだった故人のブロ友として、書き散らして良いことといけない”こと”、”場所”はわきまえたいものです。
 
 
今、亡くなった友人とブログ上のご縁があった方々に、思い出して欲しいことがあります。
 
彼女は、亡くなる3年以上も前に、こんな記事を書いていました。
2012/2/19(日) 午後 6:50にアップされた記事の一部を引用させてもらいます。
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誰が自殺しようと、うろたえるのは、本当は、まちがっているのだと。わたくしはそう思います。
自殺を異常なことと考え、自殺にいちいち特段の理由を求めるのは、残された人間の、「愛」や「思いやり」の名を語る、実は極めて自己中心的なわがままに過ぎない。そう思うのです。
狂言」自殺や、自殺「未遂」をせず、きっちり確実に自殺を成功させるような人間は、周囲の人間に、自分の自殺の理由を理解してほしいとか自殺を止めてほしいとか、そんな女々しいことは考えないし考えたとしてもそんなことは潔しとはしないはずです。
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未だ周囲に飛び交う、詮索や同情が、いかに故人の意思に反し、彼女の尊厳を傷つけるものであるか、彼女の”ブロ友”を名乗るのであれば、あらためて考えてみるべきと、私自身の反省も込め、今強く強く思います。
 
お心当たりの方がおられましたら、ご配慮をいただけると大変ありがたいです。
 
 
 
 
 
 
 
”幸福な愛、信じ合う心”だそうです。
(メモ帳さまのブログより)
 
 
お口直し♪
 
相も変わらず
スパイシーなオバチャンで
ごめんネ(^_-)-☆