あなろぐばあちゃんのつぶやき

Yahooブログ育ち、4人の孫のおばあちゃんです。

「死に際」と「死」を演出する権利

 随分以前のことです。
 ホスピスで亡くなられた、尊敬していた方のお別れの会は、帰りにいただいた病床で描かれたというお花の絵はがきまで、完璧な演出で進行されました。
 また、仕事で、肉親とお別れになったばかりの御遺族とお話をする機会をたくさん得ました。
どの故人も、死後のシナリオを生前に用意されておられた方々でした。
その時々に、故人の冷静さと、残された人々への配慮を多くの方が讃えました。

 ただ、私が忘れられないのは、亡くなった人と特に親しかった方がもらされた特別の寂しさです。
 その言葉は様々です。「もっと、甘えて欲しかった。」だったり「お世話をさせてもらえないと、ちゃんとお別れができないんです。」と電話の向こうでさめざめと泣かれた方もありました。

 この頃思うのです。
 死は、逝ってしまう本人だけのものではないんじゃないかと。


 寝たきりになられてね、汚れ物を洗わせていただいたの。
優しい言葉は最後までかけていただかなかったけれど、「ごめんね。ありがとう。」って涙を浮かべて仰ったのよ。辛いことがたくさんあったけれど、許すとか許さないとか、どうでもいいことだったのよねぇ、本当は。。。感謝してる。
 これは、苦手だった気丈な小姑さんを看取られた、年配女性の言葉です。遠くを懐かしむように語られた、穏やかな優しい笑顔が忘れられません。

 リビングウィルや遺言を書くということが、普通の人にも身近な時代になりました。
 私自身も、意志の働かなくなった時自己の尊厳を保つ手段であったり、死後に無用な争いを避ける手段として必要なことと思う年齢になりました。
 ただ経験から、まず死後の体は、自分のものではないと思っています。
 また、残された家族の手で、皆の気の済むようなお別れのセレモニーを持ってくれればそれが一番ありがたいことと思っております。
 そして、できるなら、「とんでもない人だったよねぇ。。。」などと、お酒の肴にされながら、私の親しかった人同士が昔話にふけるような、そんな時間を持ってもらえたらなぁ、なぁんて勝手なことも考えたりします。


 今朝、親しくあるべき人が、末期癌の病床にあることと、見舞いなど一切の気遣いは無用に願いたいという意志が人づてに伝わって参りました。
 私は今、そのことをただただ、ひとりで嘆き悲しむだけしか出来ないのです。
 立派な死って、ことごとく周囲に残酷なんです。
 

 死は、逝く人だけのものと言われますか?
 生きることは、生きている自分自身だけのものではありません。

 私は今、死も、自分自身だけのものであってはならないと思うのです。