ヨゴレノニイチャンのこと
昔、幼かった私でも、大人の食事休憩時などに店番程度のお手伝いは出来たし、
算数がまだ出来なくても、煙草くらいなら、大人を呼びに行かなくても、ひとりで売ることができた。
小さな商家には、子供が担う仕事があり、そこには馴染みのお客さんなど、大人達との触れあいがあった。
ヨゴレノニイチャンは、毎日煙草を買っていく、馴染みのお客さんのひとりだった。
だが、ショートピースを吸っていたことは覚えているが、名前は思い出せない。
両親や、近所の人がヨゴレノニイチャンと呼んでいたから、
ヨゴレノニイチャンはヨゴレノニイチャンだったのだ。
そして、ヨゴレが何なのかは、あの日までわからなかった。
その日私は確か、紙芝居を追いかけて、縄張り外の町内で迷子になってしまった。
見慣れない子ども達がそれぞれの家路につき、私はひとりになってしまった。
泣いてはいなかったと思うのだが、きっとソートー挙動不審だったに違いない。
するとそこに通りかかった、ヨゴレノニイチャンが声をかけてくれた。
迷子になったことを伝えると、わざわざ家まで送ってくれた。
地獄で仏、あの時私には、ヨゴレノニイチャンがまるで月光仮面に見えた。
忙しい商家で、子供は結構ほったらかし。
また、祖父に似て鉄砲玉な私ではあったが、母が晩ご飯の支度にかかる時刻となり、
実家ではそろそろ、両親の心配がはじまる頃だった。
「ただいまぁっ!迷子になったばってん、ヨゴレノニイチャンに送ってもろたっ♪」
私はつとめて元気にふるまった。
父は一瞬つまった後、ヨゴレノニイチャンに、
「世話になったなぁ。ありがと、ありがと。」とお礼を言った。
すると、ヨゴレノニイチャンが、哀しい声で言った。
「おやっさん。俺、今ぁ、嬢ちゃんにヨゴレて言われたばいっ!」
「・・・。」
私には訳がわからなかった。
すると、父が真顔になり、静かに言った。
「世話んなって、なんばってん。
ヨゴレはヨゴレだろもん。
人にヨゴレて言われよごつなかならぁ、ヨゴレばやむるとよかたい。
・・・あぁたがおっかさんな、、、悔やんどらすぞ・・・。」
その後のことは、あまりよく覚えていない。
だが、ヨゴレが何なのかってことと、ヨゴレにヨゴレと言ってはいけないことを、
ヨゴレノニイチャンが帰った後、多分両親に教わったと思う。
また今思えばこれを境に、両親も、会話の中で、職業などで呼んでいた幾人かのお客さんを、
名前で呼ぶようになったのだと思う。
ホネツギンセンセイ(整形外科医)や、ボンサン(住職)、いく人かはそのままだったけれど。
だけど、当のヨゴレノニイチャンをそれから少しすると、近所で見かけなくなった。
それからどれ位経っただろう。
ある日、鉄砲玉ジイチャンが店先で、ふと思い出したようにつぶやいた。
「あんヨゴレン(の)アンチャンな、パチンコ屋でん見らんねぇて思ぃよったら、
昨日、○○町ん外れで、作業着ば着てトラックから降りよったゾォッ。」
恐らく、父が嬉しい顔をして、何か話しをしたと思うのが、思い出せない。
言わなくてもいいことを言わずにはいられない、時々やっかいな父。
お風呂のたんびに、耳の後ろを洗えと言う口やかましい母。
どちらも、ちょっと苦手な時もあるけれど、私はそんな両親に育てられた。
商家の店先で、人と関わり合いながら生きていこうとする時、
その関わり合いにまごころを込めることが、幸せに生きる術なのだということを、
両親の後ろ姿に教えられたように思う。
また、馴染みのお客さんを失う危険をおかしてでも、誠意を貫くことが、
商人なりの品格なのだと、私は今も信じている。
実家では今も両親が煙草屋を営むものの、大抵の人が自販機で煙草を買って店を通り過ぎて行く。
今商家に生まれたとして、ゲームやお稽古に忙しい子供は、恐らく家の手伝いはしない。
また、幼い子供の一人歩きなど、今の時代はあり得ないこと。
こんな昔話をすれば笑われる。
それでも、昭和の物を懐かしみ礼賛するのも結構だが、物をとっておけないあなろぐはせめて、
昭和の良き気風を、私の生き方で伝えたい。
折しも今年は、平成生まれの成人が誕生する節目の年。
かつて「新人類」と呼ばれた人達がそろそろ孫を持つ時代である。
何より、私の中にある古き良き昭和は、自分の手で大切に温めておきたいから。
ところで・・・、
人はなぜ、手を染めて、足を洗うのでしょう?!
これこそ蛇足なのですが、ご存じの方があれば教えてください。
※ あるお友達、それからロンウルさんの記事を拝見して、この記事を書かせていただきました。
感謝 <(_ _)>
感謝 <(_ _)>