あなろぐばあちゃんのつぶやき

Yahooブログ育ち、4人の孫のおばあちゃんです。

ぼんさんとお金のこと・・・耐震構造偽造事件から

耐震構造偽造事件では、ブロガーには、某宗教団体がらみの疑惑関連が熱い話題だ。
そこで、だから○○学会はぁ~とか、ともすれば、宗教だたきに走る動きが生じるのがイヤだ。

私の実家杉本家は、仏間には神棚も祀る、普通の日本の商家だった。
幼い頃、祖父母がリズムを作る年間の行事サイクルで家が回っていた。

多分ひいじいちゃんか、ひいばあちゃんの命日。
クロモリの自転車にまたがり、ワシャワシャと法衣姿のぼんさんがやってくる。
私はそれを楽しみにしていた。

お仏壇で一緒に手を合わせ、会ったことのない人に子供なりの思いを寄せていたに違いない。
巻きずしとお煮しめ、ほうれん草のおひたし、それに煮豆。
そんなお決まりの、祖母の心づくしのお膳をぼんさんと一緒に囲む。
いつもにこにこのやさしいぼんさんが私は大好きだった。
幼かった私に、何を話されたのか定かではない。
ただ、「おがむよいこは、幸せになる」そう確信していたように思う。
祈りは人を救い、幸せにする。
よいこがただのオバチャンになった今も、
何の過不足もなく、私の確固たる宗教観であるような気がしている。

そのぼんさんも遠い昔にお亡くなりになった。
その長女の御主人が御住職となられ、お経をあげに来られるようになった。
巻きずしも煮豆の膳もこしらえられなくなった。
御住職の希望で、お膳の代わりにお布施に上乗せしてあるとのこと。
この話しを切り出される時、杉本家のお布施が他所の檀家より少ないことを、
それとなく言われたことは、悲しい話しとして、子供だった私の耳にもはいった。

学齢に達し、平日の家の行事とは疎遠になっていた。
大人になり、久々に御住職にお会いしたら、高級車に乗っておられた。

ある日、お墓を整理し莫大な寄付を集めて納骨堂を作る、御住職の勝手な計画は、
それぞれの檀家の経机の引き出しにある、書き付けを手に集まった老人達に阻止された。
杉本の父が呼びかけたことを、御住職がご存じない筈はない。
それもあるのだろうが、粗末にはされないものの、お寺が遠い存在になったように思う。

随分、前置きが長くなってしまったが、
人は日々の生業によって生かされており、その中で豊かな暮らしを築きたいとだれもが思う。
お金がなけりゃ、米も買えず、ぼんさんだって生きてはいけない。
金で生かされていると言っても過言ではない。
また、人にはそれぞれの価値観があり、時代も流れている。
クロモリの自転車が高級車に化けたことを、とやかく言うつもりもない。

宗教はそんな人間社会で生き続けるものであり、ある意味、金無しでは宗教も生き続けられない。
人が集まり、団体や法人という組織を形成すれば、そこではその規模に応じた金が動く。
その中で、権力や欲が渦巻くのは致し方ないことのように思う。
ただ、それは「教え」を離れた組織運営や経営の産物である。
ここで、短絡に宗教そのものを否定したり、ましてや怖がる必要も無い。

悪と過ちが渦を巻く人の世。
だが、その中で人々は生きていかなければならない。
悪を制すのは、さらなる悪であるはずがない。
正義に裏付けられた秩序である。
法令規則やマナー、道徳、常識のたぐいである。
それは人の思いやりや希望で出来ている。
人を救い、幸せにするために生まれた宗教。
教えはもともとちいさなつぶやきで、耳を澄まさなければ聞こえない。
また、太陽や生命をはじめとした自然からは、しばしば希望をいただく。
それらは、声さえも持たない。

祈ることは、静かに思う時間を与えてくれる。
静かに耳を澄ませて、私に希望を与えてくれる、人の力を超えたものに耳を傾け、
感じる五感を研ぎ澄ませていたい。

師走に入り、冬の寒さが身に染みる。
そんな日は、お日さまのぬくもりが一層ありがたい。








【本日の余談】

*杉本が鈴木になったので、イニシアルが変わらない。
 ちなみに、昔、長く音信の途絶えていた友人が、絵のサインを見て未婚と確信していた。
 久々に会った時、「藍子ちゃんは未婚の母」になっていた。
 「藍子ちゃんには、それもありと思った。」と言われ、さらに驚いた。

 また、偶然にもでじのイニシアルは私と一緒。
 また、ふたりの子供達同士、イニシアルが一緒。
 なんだか、似たもの同士の家族だ。
 個性が飛んでいる一家と言われたことがあるが、それでもけっこう仲が良い。
 イニシアルのせいかなぁ?なぁ~んてネ (^_-)-☆