死刑、懲役、禁固、釈放、無期、終身。。。
死刑廃止の議論が長く続く中、法務大臣の不可解な行動があった。
その後、ブログ友方の、最近の記事の影響もあり、いくつかの言葉が、ひっかかっていた。
今日、東京拘置所の「刑場」が公開された記事や、元刑務官等のコメントをながめて思った。
死刑ではなく、刑全体の議論を進めるべきと。
刑務所の中の現実を知らずに、死刑のみの議論を進めるのははなはだ危険と感じている。
何の落ち度もない人達の生命を、いくつも、理不尽に奪った犯人が、ひとつの生命であがなう。。。
それで償えるとは、、、現実には、死刑でも足りない罪があると感じる人がたくさんいる筈。
私も、そのひとりだ。
この10日あまり、塀の中の実態を書いた本や、HPに目を通し、
「死刑」の議論は、逮捕・起訴から刑にいたる実態を、広く市民が知ったうえでなされるべきと、強く感じている。
裁判員制度下の日本にあって、多くの市民が無知のまま、死刑存否の議論が進もうとしていることがそら恐ろしい。
「更生を期待する」気持ちを、否定するつもりはないが、
与えられた責任といった観点からすれば、いかがなものか。
塀の中の人々のお世話をする方々、保護司の絶対数が極端に不足する中、先進国の中でも高い再犯率。
(先日の、保護司の方が殺されたという報道には、本当に胸が痛んだ。)
収容施設が、更正が期待できる状況にはなく、安易な人権保護が、犯罪抑止力を奪っている現実を思えば、消去法で、「死刑」を残さない訳にはいかないのではないか。
また、冤罪の可能性を死刑存否の議論で語るのは、やめて欲しい。
人の心の弱さにつけいり、合法的暴力によりシナリオどおりの自供を引き出す、取り調べの常道こそが問題だと思うから。
さらに、刑の執行を待つ間に、真人間になることが、死刑の意義と説く人がいたが、デジタル思考で、
量刑の物差しをもとに考えれば、死刑判決に加えて長い拘束を付加するのは理不尽とも言え、
法務大臣の怠慢による執行の遅れの是非についても、きちんと議論すべきと思う。
(法律では、判決から半年で執行されるべき刑が、執行が何年も遅れ拘置所がオーバーフローし、適切な処遇ができない現況はいかがなものか。)
要は、バランスの問題で、支弁可能な予算の範囲内で、最善の選択をするしかない。
また、塀の中の5年、10年の服役期間が、案外あっという間だと言う。
娑婆では、食べていけない人達に福祉が届かない現状で、塀の中では、自由の制限はあるものの、血税で衣食住が保証されている。
一方で、更生教育は不十分で、塀の中に舞い戻る人達が大勢いる。
この現実を一般市民も直視する必要がある。
特に、釈放された方の、人権保護と更生に、向き合わないまま、刑全体の現実を直視しないまま、死刑存否を論じてはいけない。
かなしい話しだが、現状では「更生の可能性への期待」は、新たな犯罪を生む危険にすり替わる。
裁判員のその場しのぎや責任回避は、そのまま、社会の脅威に通じていることを、忘れてはいけない。
【参考】
「塀の中の黙示録」:http://blog.livedoor.jp/bsxkinkoban/
「死刑絶対肯定論―無期懲役囚の主張 」:
(新潮新書) [新書]
ISBN-10: 4106103737
ISBN-13: 978-4106103735
※ 逮捕され起訴されれば、身体検査で、身ぐるみ剥がされ、肛門を自ら他人に曝し、ガラス棒で検査される。
「原則無罪」という言葉の意味はおおよそ空虚で、合法的に人権を奪われ、塀の中の人となる。
義務教育の間に、子供達にその現実を知らせ、法令遵守意識を高めることが、犯罪抑止につながる。
死刑執行の現場公開なんぞの前に、知らしめるべきことがたくさんあるのではないか。
真の情報公開と、冷静な議論の進展に期待する。
その後、ブログ友方の、最近の記事の影響もあり、いくつかの言葉が、ひっかかっていた。
今日、東京拘置所の「刑場」が公開された記事や、元刑務官等のコメントをながめて思った。
死刑ではなく、刑全体の議論を進めるべきと。
刑務所の中の現実を知らずに、死刑のみの議論を進めるのははなはだ危険と感じている。
何の落ち度もない人達の生命を、いくつも、理不尽に奪った犯人が、ひとつの生命であがなう。。。
それで償えるとは、、、現実には、死刑でも足りない罪があると感じる人がたくさんいる筈。
私も、そのひとりだ。
この10日あまり、塀の中の実態を書いた本や、HPに目を通し、
「死刑」の議論は、逮捕・起訴から刑にいたる実態を、広く市民が知ったうえでなされるべきと、強く感じている。
裁判員制度下の日本にあって、多くの市民が無知のまま、死刑存否の議論が進もうとしていることがそら恐ろしい。
「更生を期待する」気持ちを、否定するつもりはないが、
与えられた責任といった観点からすれば、いかがなものか。
塀の中の人々のお世話をする方々、保護司の絶対数が極端に不足する中、先進国の中でも高い再犯率。
(先日の、保護司の方が殺されたという報道には、本当に胸が痛んだ。)
収容施設が、更正が期待できる状況にはなく、安易な人権保護が、犯罪抑止力を奪っている現実を思えば、消去法で、「死刑」を残さない訳にはいかないのではないか。
また、冤罪の可能性を死刑存否の議論で語るのは、やめて欲しい。
人の心の弱さにつけいり、合法的暴力によりシナリオどおりの自供を引き出す、取り調べの常道こそが問題だと思うから。
さらに、刑の執行を待つ間に、真人間になることが、死刑の意義と説く人がいたが、デジタル思考で、
量刑の物差しをもとに考えれば、死刑判決に加えて長い拘束を付加するのは理不尽とも言え、
法務大臣の怠慢による執行の遅れの是非についても、きちんと議論すべきと思う。
(法律では、判決から半年で執行されるべき刑が、執行が何年も遅れ拘置所がオーバーフローし、適切な処遇ができない現況はいかがなものか。)
要は、バランスの問題で、支弁可能な予算の範囲内で、最善の選択をするしかない。
また、塀の中の5年、10年の服役期間が、案外あっという間だと言う。
娑婆では、食べていけない人達に福祉が届かない現状で、塀の中では、自由の制限はあるものの、血税で衣食住が保証されている。
一方で、更生教育は不十分で、塀の中に舞い戻る人達が大勢いる。
この現実を一般市民も直視する必要がある。
特に、釈放された方の、人権保護と更生に、向き合わないまま、刑全体の現実を直視しないまま、死刑存否を論じてはいけない。
かなしい話しだが、現状では「更生の可能性への期待」は、新たな犯罪を生む危険にすり替わる。
裁判員のその場しのぎや責任回避は、そのまま、社会の脅威に通じていることを、忘れてはいけない。
【参考】
「塀の中の黙示録」:http://blog.livedoor.jp/bsxkinkoban/
「死刑絶対肯定論―無期懲役囚の主張 」:
(新潮新書) [新書]
ISBN-10: 4106103737
ISBN-13: 978-4106103735
※ 逮捕され起訴されれば、身体検査で、身ぐるみ剥がされ、肛門を自ら他人に曝し、ガラス棒で検査される。
「原則無罪」という言葉の意味はおおよそ空虚で、合法的に人権を奪われ、塀の中の人となる。
義務教育の間に、子供達にその現実を知らせ、法令遵守意識を高めることが、犯罪抑止につながる。
死刑執行の現場公開なんぞの前に、知らしめるべきことがたくさんあるのではないか。
真の情報公開と、冷静な議論の進展に期待する。