あなろぐばあちゃんのつぶやき

Yahooブログ育ち、4人の孫のおばあちゃんです。

「道徳」と「心」

子供達の道徳心を育むのは、社会全体の役割と思うものの、
道徳とくればやはり、「道徳」という学校の教科に大きな期待を委ねてしまう。

この頃思うこと。
「道徳」は道徳心を育むための教科ではないのか?
心を語らずして、道徳心を育むことが果たしてできるのだろうか?

「昔、とっても困ったぼっちゃん」だった金平糖の母として、言わせていただく。

学校が、心に立ち入ることをことごとく避けながら、
一方では、悲惨な事件の度に「心の闇をさぐる。」という活字をメディアで目にする。
特定の宗教を公教育が支持できない状況は理解できるものの、
信仰心を否定する必要は無いと常々思ってきた。

道具としての刃物の役割子供達が覚える前に、学校では、凶器として刃物が排除された。
刃物が人を傷つけることをリアルに意識できている子供は案外少ない。
我が家の場合、「台所の包丁は切れない」と言う、私のぼやきが原因なのかもしれないが(笑)

結局、私も含め、子育ての責任を担うには未熟過ぎて忙しすぎる親達。
全ての教育行政のゆがみとしわ寄せは、子供達に行ってしまった。
「ゆとりの教育」しかり。

道徳の時間には、是非「心」に触れて欲しい。
ただ、心を語らせるにはあまりも危うい教師達 (^^;
ならば、心を語る専門家にそれを委ねても良いではないか。
「体系化された学習指導要領の公開と準拠」を義務づけることは容易い制度下だと思料する。
時間はかかることと思うが、事なかれ主義の役割放棄より、国民の理解は得られる筈だ。









「とっても困ったぼっちゃん」と呼ばれた金平糖とその母も、
一昔前はそれなりの居場所を得ることができて、今の金平糖と私がいる。
金平糖にとって、試練の多い「学校」であったが、
不出来な母にも係わらず、社会適応できているのは「学校」と与えられた環境のおかげと感謝している。
だが、ゆめばあとしてはやはり、これからの「学校」に憂いを感じずにはいられない。

反省に基づく改善、前向きな方向転換があって良い。
浅才無学なあなろぐは、ただただ、専門家と教育行政に携わる人々に、あつく期待するのみなのだ。








なずなさまの記事を拝見して、ふと、ひっかかっていたことを思い出し書いてみました。
親しくしていただいている方々に、幾人か関係者がおられることもあり、これまで書けずにおりました。
でも、ただの痴性派毒吐きブログ、一応匿名をいいことに、過ぎたワインのせいにさせていただきます。相変わらず困ったヤツとご勘弁くださいませ。。。

んな訳で、書庫はココです♪